studio HAIYAMA  
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 1111111111    リートフェルと若き妻と友人と、そしてミセスシュレーダーが語る-
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 スライドギャラリー / studio HAIYAMA                            

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 リートフェルとシュレーダー邸、それは20世紀近代建築史の「奇跡」として語り継がれてきました。そして近代建築では稀世界遺産登録、最もローコストの(ほとんどプアな)世界遺産でしょう。しかし、華々しく建築史を彩った大きな公共建築物を差し置いて小さな住宅が遺産登録を受けたこと-それは近代建築史の<いきさつ>を考えると別に不思議ではありません。20世紀は住宅の世紀。20世紀の巨匠・コルもライトもミースも元は住宅設計家、住宅で近代:建築理論を拓いたのちに、それを大規模建築に応用して成功したのですから、住宅が世界遺産の栄誉を受けるのは至極当然なわけです。リートフェルトは最後まで住宅作家、そして家具デザイナーにとどまりました。
 このグラフストーリーは、シュレーダー邸を管理するミュージアムのショップで売られているDVDの要約です。本編は静止画を使った疑似ムービーで、大半の白黒写真は息をのむ美しさを保っています。ナレーションはオランダ語、したがって都合よく英語の字幕がついていましたので、鑑賞ついでに翻訳してみました。大型TVで見ると臨場感抜群、よろしければ左記のアドレスで購入なさってください(shroeder house でヒットします)。
*近代建築では稀・・・
 ネット情報によれば、近代建築にも歴史・文化的評価が与えられるべきとの意見があり、環境整備が進んでいるとのことです。特にコルビジェの場合は多数予測されるので、セットで申請されるはず-とのことです。上野の西洋美術館がセットに入るといいですね。
  
        ナレーター(登場人物)                              
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        リートフェルト ミセス      リートフェルト ミセスシュレーダー 友人                
                               
               
Het Rietveld Schroederhuis

               
                                   
 私は家具職人を父に生まれました。父は城のような館に住むクライアントのために働いていました。
私は
11歳のとき、Zuylen城の一室の家具をデザインするために、学校から連れ出されました。私は父の仕事場で働き、数点の作品を制作しました。
 私は家具の仕事を覚えましたが、打ち込むことができませんでした。職人修行は私が望む道ではなく、そこに未来はありませんでした。私が作ったものはオリジナルを超えるものではありませんでした。
 父と私は、色々なスタイルを混ぜ合わせてやっていたんです。
 ウィキペディア   Zulylenl
 スロットZuylen城。小さな村ウーZuylen、ユトレヒト・ネザーランドの川Vechtの畔に位置する。多くの中世の城のような特徴を維持しながら、18世紀の田舎の邸宅に変えられた。そのもっとも有名な居住者はベル・ヴァン・Tuylen(イザベル・ド・Charriele)、フェミニスト前衛の作家だった。スロットZuylenは60年前に解放され、博物館となった。庭園の散策、コンサートや特別なイベントガイドつきツァーを通じて旧き生活を忍ぶことができる。
リートフェルトとスタッフ。
彼が得意そうに座る自作アームチェアは、まだレッドとブルーにペイントされていない。

    Zulylen城で制作したカントリースタイルのイステーブルセット
 私たちは婚約し、フィアンセが私に新しい机を見にくるように言いました。若きリートフェルトは、その机を自分で運んできました。その机は何かに似ており、それは私が求めていたものではありませんでした。
 私はそのとき既にベルラーヘに傾倒していました
ウィキペディア   ヘンドリク・ベトルス・ベルラーヘ(Hendrik Petrus Berlage, 1856.2.12-1934.8.12)
 オランダを代表する建築家・都市計画家。オランダ近代建築の父と呼ばれる。1920年から1935年にかけて建設されたアムステルダム南部都市市域拡張部分が「アムステルダム派」の中核的宣言の背景を成し、その出来栄えはウィリアム・ホルフォードやジークフリード・ギーディオンに絶賛される。アムステルダム生まれ。
  
       
 私はその机が好きではありませんでしたが、もちろん彼には黙っていました。彼が作った机であったけれども、彼もまたそれが好きではありませんでした。その机は彼の父のデザインでした。そのとき我たちは、一般クライアントの好みがどこか「違う」と感じていたと思います。
 ある日夫は、私の部屋をデザインすると言い出しました。私が新居の準備に満足していないことを、彼は知っていました。私はどれも気に入っていませんでした。
 やがて、リートフェルトは期待していたとおりの提案をしてきました。私はもう二度と悩む必要がなくなりました。それは天井が低められ、実に美しい部屋でした。建築家は普通、部屋の天井を低くしようとは思わないものなんだ、と彼は言いました
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リートフェルト夫妻の新居。
 天井が全然低くありません。あるいは改築前かも
 僕は君がマッスではなく空間で勝負しようとしていることがすぐに分かったよ。共用空間から個室を仕切るとき,君は仮の仕切りを使ったんだ。
 なぜ君は新しいスタイルが必要なんだい。
 工業化のためだよ。職人は手仕事をおさらばして、機械を使わなければいけない。木の家具製作は実際重労働なんだ。私は17歳のときは力がなかった。今は違うけどね。
 私は軟弱者なんだ。家具製作は大変重労働で息が切れる仕事で、それが私が出来るだけ機械を使う理由だ。
 彼の椅子を見ると、彼はもはやカタマリ素材から解放されていたことが明白です。彼は椅子をデザインするときは、いつも小さなスケールで始めました。
 後に建築を始めたとき、すべての問題を模型で解決しました。
               
  
 この家(シュレーダー邸)と私たちが「赤と青の椅子」と呼んでいた椅子については、私は明確なアイデアを持っていました。結局はそれがこの椅子の名前になりました。
 その独特な構造は、必ずしも力学的な理由によるものではありません。椅子の構造は同時に三次元空間を表現しています。素材を使う際にはいつも空間表現の一部として使用するようにしています。
 家具のピースと家のピースには相似性があります。開放的な外観は同じ構成を持っています。共に軽く、構造と空間を決めています。内部の主空間はできるだけ区切らないようにし、内外空間は快適に結ばれています。

 つまり椅子イコール家-なんです。椅子は家の出発点、この家では当たり前のことです。
  
             
 
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そして・・・   
Ruimute-Kleur-Compositie
1923
 私は一人の女性インテリア装飾家から、ひとつの研究課題を与えられました。
彼女は空間利用について途方もないアイデアを持っていました。空間はただ機能するだけでなく、「生き方」でなくてはいけない-それがミセスシュレーダーでした。
 彼女は私が以前に何回か改修した(一貫性はありませんでしたが)古いマンションから立ち退いたばかりでした。
 私は特にモダーンを目指していたわけではありません。私にとって、モダーンとはただの好みの問題でした。だからモダーンの選択はまったくの成り行きで、頑張ったつもりは全然ありませんでした。
 リートフェルトは私を助けてくれると分かっていましたが、しかし(改修に適した)家を見つけることができませんでした。家を建ててしまおうと彼が提案し、私たちは適当な土地さがしを始めました。
 見つけたのはちっぽけな土地で、トラック運転手がトイレ代わりにしていました。本当にひどかったんですよ。
   
 リートフェルトは土地が使えるかどうか図面にしましたが,それはごくラフなスケッチでした。私たちは何がしたいの-とお互いに確かめ合いました。普通は外観から設計を始めるのに、私たちは内部からはじめました。
 私たちは自問しました「眺めがよいのはどこ、太陽はどっちから出る?」
すべてがそこから始まりました。女の子のへやはどこ、男の子のへやは?万事がこんな具合に。
 私は子供たちがいつも一緒に過ごせるよう望みました。子供たちは父親を亡くしていたのですから。その埋め合わせは、私にはとても大切なことでした。
子供たちはそれぞれの部屋を要らないと言っていました。かえっておかしいと。
 リートフェルトはさっさと仕事を済ます人で、次の日に図面は完成していましたが、気に入るものではありませんでした。それはかわいい家でしたが、今より少しがっしりした感じだった思います。美しかったけど全然私の好みではありませんでした。もっともっと美しく-と思いました。
 私は何か違ったものを求め、私たちは部屋を色々とデザインしました。しかし全部終わったとき、私は彼に壁を無くして-と頼みました。

 彼は言いました「よし、壁をとっぱらってやろうじゃないか」
       
 私たちは家を一緒に建てると決めていましたが、それは「新しいもの」への実験でした。基本的なアイデアは建築の素材感を捨てること、そして内部空間と外部空間を一体化することでした。             

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    私は原っぱと水辺、川に続く眺めが大好きでしたが、そこは今では住宅街です。その眺めは実に美しく、見事でした。私たちはフランダースの大地と呼んでいました、フランダースに行ったことはありませんでしたけどね、フフッ。        
       
 つまり、それは住宅と言えるものではありませんでした。建築審査課に見せたら、彼らはスタジオか何かで、住宅ではないと言うでしょう。私たちは計画を進め、建築基準に合わせてそれを建て、その後で手を加えました。一階をマッシブにしないようにするのは難しいことでした。一階と二階が別々のものになることは避けなければならない。それはやがて解決しました。
 シュレーダー邸はゆっくりと進化しはじめました。最初の問題は外観がマッシブ過ぎることでした。先入観を捨てるのはとても難しいことです。しかし私たちにはそれが課題でした。私はこのような家をその後二度と建ていませんが、しかし私の仕事は、すべてここから始まりました。
       
 私たち家族はまだ準備できないうちに引っ越しました。ひどい湿気でした。そこにはまだ作業台があり、家族は寒さに震えながらそこで寝たものです。ストーブにかじりつき放し、私はいつも真ん中!
 カップボードなどの工事は、入居後に行われました。工事は入居後も続いていたんです。家族が住んでいたのですから、いろいろ入用でした。だから室内は私の仕事、室外がリートフェルトの仕事でした。
 思うにこの家はリートフェルトの「すべて」ではありません。私は彼が合わせてくれていたのだと思います。この家は、彼の-というより私の好みでした。
 リートフェルトはこの家をコンクリートスラブで作るべきだと考えていました。しかしそれは問題外でした。では部分的(耐力壁となる部分)なら打てるか。そのような目的のためにコンクリートを運ぶ手段がありませんでした。不可能でした。工事費も高すぎたと思います。しかし計画は計画です。残念ですが彼は結局、レンガを使わざるを得ませんでした。これは廉価な家です。予算は6000ギルダーです。最後は少し超えましたが。



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編者注記   リートフェルトはこの家をコンクリートスラブで作るべきだと考えていました。
 
プランから容易に推量されるように、バランスよく配置されたRC耐力壁をRCスラブで一体化する構造計画であったようです。しかしコストの関係で初期の構造計画を断念、耐力壁はレンガ壁(鉄筋補強)に、RCスラブは木造床・木造屋根に替えられた経緯が語られています。バルコニーも木製(部分的にはRCも使われてているように見えますが、確認できません)、さりげなく鉄柱サポートが使われており、後に鮮やかにペイントされてシュレーダー邸の主要なモチーフに変身します。
 阪神大震災で問題になったように、耐力壁は水平剛性十分な床で繋がれていなければ協働しません。シュレーダー邸は幸いにも、一度も地震に会っていないのでしょう。
                
  
 新しい建築の創造など、私たちの意図するところではありませんでした。私はまだディ・シュティール芸術運動を知りませんでした。私は18か月後にディ・シュティールに参加しました。
 それは全くの偶然でした。彼らは私の仕事にメンバーの作品との類似性を見ていました。ディ・シュティールは新スタイルを創出しようと努めており、そして私がただ一人(紙の上のプロジェクトではなく)それを成し遂げていました。まさにディ・シュティールとの偶然の出会いでした。

 リートフェルトは、住宅は50年以上使われるべきではないと言っていました。というのは、住宅はいずれ時代遅れになるからです。

 こうやって私たちは仕事をつづけました。私たちは小さな仕事を頼まれていました。世間の大半の人は私たちの客ではありませんでしたが。
 政治の世界のみならず美術にせよ建築にせよ、何か新しいことを始めようとするなら、旧いものを壊さなければなりません。しかしそれは不和を生みます。人々が馴染んできた調和は壊れます。あなたは対立を乗り越えなくてはなりません。しかし力み過ぎないこと。あなた自身をやめることはできないし、歩き続けるほかはありません。
 今では私には、自分が歩んできた道に一本のラインがあることが分かります。しかしその時にそれが私に分かるはずもありません。

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 リートフェルトと私はお互いをよく知り、時々に生じた問題をすべて理解していました。まったくよく喧嘩したものです。
 週末には大勢のひとが見学に来ました。時には家の中にも入ってきました。見学者は必ずしも設計に賛同していませんでした。そうでないと、(私のように)死ぬほど働くことになったでしょう。人が家をシンプルだと褒めてくれるときが好きでした。というのは、私たちは地味なくらしを実践しようとしていたのですから。
 家族は生活のすべてを家のメンテナンスに費やしました。私にとって家は人生のステップでした。それまで私はごく安全な家に住んでいました。そして最後に、穴だらけ窓だらけの家に行き着きました。

 最初は「雨戸」をつけるつもりでした。そうすれば夜は誰も押しかけて来られませんから。しかし心配はご無用です。物事をシンプルに考えさえすれば、何も心配は要らないと思います。シンプルな生活ができるよう、私はベストを尽くしました。込み入った生活はお互いに気づまりです。
 家はリノベーションが必要なので、シンプルさはむしろ現実的です。リノベーションはとてもお金がかかります。リートフェルトはこの家が長持ちするとは、絶対に思っていませんでした。
 彼が正しかったと思います。この家は取り壊されるべきでした。家のコンディションは次第に悪化していきました。空間芸術だった家の前に、遮音壁が建てられました。遮音壁は空地沿いにぐるりと一周していました。遮音壁設置は時流の事業であり、ストップは不可能でした。
 私はすべてに満足しています。私の家はとても楽しい、小さな家です。
             
  
       今もそう思います。

              
  
    
     世界遺産登録の紋章